日本橋の歴史
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プロローグ

世界都市江戸の始まり…

徳川家康公の天下一城下町建設

1590年の8月1日に、徳川家康公は半蔵門から江戸城に入りました。
その頃、堤防の無いこの辺りは、葦(あし)や葭(よし)などの水生植物が生い茂る大湿地帯の寒村にすぎませんでした。

3万人といわれる家臣を従えてきた家康公は、
太田道灌(どうかん)が1457年に砦として江戸城を築き、1486年に没した後、
主人不在で雨ざらしになっていたこの場所から、打倒豊臣政権を胸に秘めた天下一の城下町建設に乗り出しました。

江戸のグランドデザイナーを任されたのは、なんと家康公・秀忠公、家光公の3世代の将軍に仕え、
108才まで生きたと伝えられる当時最高の知識人「天海僧正」です。

天海の『四神』都市計画

天海はこう考えました。
「0から始める江戸の街が800年続く京の都に勝つには、素直に負けを認めて、相手の町が長く続いた秘訣を学ぶしかない。」と。

そこで江戸の町は、京が町づくりの指針にした中国の都で採用された風水に基づく『四神相応の地』を都市計画に採用しています。

東に大河(京は鴨川、江戸は隅田川)、
南に水辺(京は巨椋池、江戸は江戸湾)、
西に大道(京は山陰道・山陽道、江戸は東海道)、
北に山(京は北山、江戸は筑波山・西の富士山)に守られた真ん中の江戸城とその城下町。

『東の青竜』、『南の朱雀』、『西の白虎』、『北の玄武』の四神相応の地として永遠に神仏のご加護を受ける場所だという考え方です。

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四神(しじん)
中国の神話、天の四方の方向を司る霊獣。四神の存在にもっとも相応しいと伝統的に信じられてきた地勢や地層のことを「四神相応」という。

天海は、まず、家臣が住める場所造りに取り掛かりました。

今の内堀の前はすぐ日比谷入り江と呼ばれる遠浅の海岸だった為、ここを神田山を削った土砂で埋め立てました。
そこが大名小路となり、会津藩23万石の上屋敷跡が今の和田倉堀噴水公園になっています。

江戸城の石垣は主に伊豆半島の石を使った為、その巨石を直接江戸城へ水路で運ぶ為に、古い川を付け替えたり、道三堀などの水路を開削しました。

天海は、さらにウイルスや病原菌を知らない当時の人々が最も恐れていた「鬼(魑魅魍魎)」封じを行います。
裏鬼門封じに日比谷にあった増上寺を芝へ移し(1598年)、赤坂には江戸城内の紅葉山にあった太田道灌ゆかりの山王社を徳川家の産土神として移転(1604年)させ、守りを固めました。
表鬼門封じには、江戸城拡張に合わせて江戸城のお堀前にあった将門塚を神田山へ移し(現在地は1616年)、江戸総鎮守の神田明神へと発展させました。

さらに自らが座主を務めていた比叡山延暦寺の代わりに、上野に東叡山寛永寺(1625年創建)。
清水寺の代わりに清水観音堂を創建(1631年)。
不忍池を琵琶湖に見立てて、竹生島の弁財天を不忍池弁天堂に勧請(1625年)しました。

こうして、世界都市江戸が幕を開けるのです。

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神田明神、上野寛永寺清水観音堂(きよみずかんのんどう)