日本橋の歴史
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世界一の都市、大江戸~東京へ

水運の大動脈、商業の中心、関東大震災、東京大空襲

世界最大の人口100万人都市「東京」へ

1657年、江戸最大の明暦の大火で10万人が犠牲になるまで、江戸の東の果ては隅田川でした。
川で堰き止められた犠牲者の多さに驚いた幕府が慌てて架けたのが、東側の下総の国と西側の武蔵の国とをつなぐ「両国橋」です。

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初代歌川広重 「名所江戸百景 両国橋大川端 鳥安版」
【あひ鴨一品鳥安】所蔵

この橋の開通により江戸の都市圏は一気に拡大し、国分が産ぶ声を挙げた1712年頃には、人口100万人を超える世界最大の都市へと変貌を遂げていました。

江戸の地物の酒や醤油を始めとする江戸の食べ物は、上方から下って来ない(「下らない」)「地回り」と呼ばれ、質が低いとさげすまれていましたが、この頃には、特に野田や銚子の醤油の品質向上で、寿司・蕎麦・鰻・天ぷら・おでんなどの立ち食いファストフード食へと発展向上し、様々な食屋台が江戸市中を賑わすようになりました。
これら寿司・そば・鰻・天ぷら・おでんは、後に「江戸五食」と呼ばれます。

その流れに乗るように、国分は呉服屋から撤退し、土浦での醤油醸造の専業へ商売を切り替え、競争の激しい江戸の商売の荒波を越えて来ました。

1867年、最後の将軍慶喜公の大政奉還により江戸幕府が消滅し、1868年9月に江戸は東京へと改称され、
1868年10月と1869年3月の明治天皇東京行幸により、江戸城は宮城と改称され、東京は名実共に日本の首都となりました。

関東大震災、東京大空襲と不屈の発展

鎖国で遅れた日本を建て直そうと、明治政府は文明開化の欧化政策を推し進め、富国強兵路線をひた走ります。 そして朝鮮半島の権益を巡って清国との間に日清戦争(1894年-1895年)を、満州の権益を巡ってロシアとの間に日露戦争(1904年-1905年)を起こします。

しかし、両戦争に勝ち、初めて海外領土を手に入れ浮かれていた日本を関東大震災(1923年)が襲います。

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大正12.9.1 東京大震災実況 日本橋.乃 三越附近
【日本橋弁松総本店】所蔵

この時、首都東京は灰燼(かいじん)に帰し、住み家を失った人達は、身寄りをたよってちりぢりになりました。
その中でも被害の少なかった人達はすぐに再建に着手し、瓦礫の中から火災に強い町を作るべく行動を始めました。
今の外堀通りや昭和通りなどの大通りはその時に計画されたものです。
その埋め立てには震災の瓦礫がそのまま利用され、江戸以来のものを無駄にしない自給自足精神が発揮されました。

今、中央区に架かる隅田川の橋の内、落ちなかった新大橋(1912年)以外の永代橋(1926年)、清州橋(1928年)、両国橋(1932年)は、震災復興橋梁として架けられたものです。

次に日本橋を襲った大災害は東京大空襲(1945年)です。
下町だけで10万人が犠牲となり、この時の火災で日本橋はほぼ焼け野原となりました。

この時も、疎開先や戦地から戻った人々の不屈の努力で町は戦後の大混乱の中、再生していきます。
一番大変だったのは、帰ってみたら自分の土地に知らない誰かが勝手に縄張りをして住んでいた事です。
しかし、ここ日本橋は江戸から続く大人の町。
無駄な争いはせず、お金を払って立ち退くか、土地を買い戻して出て行ってもらったそうです。

故郷に帰れない行く宛てのない若者達が、ここを死に場所と決めて一所懸命遮二無二働き、店と町を守った江戸の町衆の伝統はここでも発揮されたのです。
子弟の教育にはお金を惜しまず、江戸時代から寺子屋を自営し、小学校だけは地元で過ごさせる日本橋の商人の伝統は今も続き、代を重ねながらも祭りや町会活動などに本気で取り組む姿勢は今も守られています。