日本橋の始まり
日本橋の誕生、五街道の起点、文化の発展、国分
日本の中心、日本橋
国の中心が橋の真ん中にあることが、江戸・東京文化の特徴を表しています。
征夷大将軍になったばかりの徳川家康公は、都のあった最大の政治都市「京」や、最大の経済都市「大坂」に対抗し、勝つためにひなびた大湿地帯を埋め立て、運河を手掘りし、川を付け替えて大水上都市を建設していきました。
そして江戸城に最も近いこの場所に幕府公認の橋を架け(1603年)、「日本橋」と名付けて道を整備し、五街道の起点(1604年)と定めました。
「朝・昼・晩・三千両の落ち処」、日本橋大繁華街
城の下に位置する町には町人・職人を住まわせ、その住人の生活の為、魚河岸を設けます(1617年-1923年)。 さらに娯楽の為に芝居町を設け(1630年代-1840年代)、その奥に葭原遊郭(よしわらゆうかく)(1618年-1657年)も設けて、古川柳で「朝・昼・晩・三千両の落ち処」と呼ばれる程の大繁華街を形成していきました。
これは、ひとえに初代家康公の「民の繁栄なくして国の繫栄なし。」との戦国終焉者としての高い志に根差すものであり、それを受け継いだ歴代の将軍達も、民の生活と経済の繁栄こそが国の礎であるとの大方針を守り続けてきたからだと思われます。
他国から来た人がこの橋にたたずめば、橋の上には人馬があふれ、下の川には小舟に積んだ荷物がひっきりなしに行き交い、右手には上様の江戸城があり、左手には天下一の富士山が望めるという、「陸・海・空」のすべてを集めた日本第一の景色が広がっているのです。
この場所を国の中心にしたことが、江戸を世界一の大都市へと発展させた、まさにきっかけとなったのです。
日本橋の発展と共に歩む【国分グループ本社】
この中心の橋の南詰にたくさんの蔵を持っていたのが、江戸時代は「大國屋」(1712年創業)と名乗っていた【国分グループ本社】です。
最初は呉服屋をしていましたが、5代将軍綱吉時代に花開いた元禄文化のおかげで、ただの地方都市だった江戸が京や大坂と並ぶか凌駕する程の勢いを持ち始めた時に、 いち早く醤油業の成長性に着目し、土浦で醸造を始め、大成功を収めてこの橋と江戸城の間で商売を広げ蔵を増やしていきました。
その繁栄ぶりは幕末の浮世絵師初代歌川広重の元旦の雪の日の日本橋を描いた絵(1858年)となって残っています。